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週報
Weekly Report

公開日:2024/6/4 第2933回例会  内容:第2932回(2024/5/28)レポート

例会予定

**第2933回例会のスケジュール**
6/4(火)クラブ協議会 会場:THETA MU(シータミュー)

**次回以降のスケジュール**
6/11(火)ホタル観賞会 会場:文化幼稚園自然観察園
6/18(火)定款の規定により休会
6/25(火)最終夜間例会 会場:掬水亭

お客様紹介

村山 宣章 副会長

本日の卓話の時間はイニシエーションスピーチでございます。柳さんと佐塚さんよろしくお願いいたします。以上でございます。

会長の時間

五十嵐 俊昭会長

皆さん、こんにちは。今日から数日間、大雨が予想されていますので、気を付けて行動していただければと思います。

会長としての任期も、今日を含めてあと4回の例会で終了となります。大した役目を果たせず、誠に申し訳ありませんでしたが、残りの4回も頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

今日お話しする内容ですが、皆さんもご存知かと思いますが、西武ライオンズの松井監督が休養するという発表がありました。ニュースになる前に、チームは土曜日と日曜日に連勝していました。連勝直後に、西武ライオンズの営業担当から電話がありました。私は一瞬、何か未払いでもあったのかと心配しましたが、「松井監督が休養することになりました」という連絡でした。その数時間後にニュースやSNSで報道されましたが、何があったのか、正直なところ全くわかりません。

5月が始まったばかりで監督が休養するのは、以前にもロータリーの卓話に何度も来ていただいた伊原監督の例があります。伊原監督には卓話を2回、ゴルフも2回来ていただき、有志で何度か食事もご一緒させていただきました。伊原さんは私の大学の先輩で、芝浦工業大学出身です。私が入学した時には、すでにプロ野球選手として活躍されていました。現在、芝浦工業大学は東都大学リーグの4部リーグですが、伊原監督が在籍していた頃は東都大学1部リーグでした。伊原さんからお話を伺った時に、芝浦工業大学からプロ野球選手が出るとは驚きました。

馴染み深く仲良くさせていただいている伊原監督ですが、監督を辞めた後も色々とお話を伺う機会がありました。その時、伊原監督がよくおっしゃっていたのは、「プロ野球も会社も、組織を作り上げなければならない。組織は一人ではできない。野球で言えば、コーチがいて、その下に選手がいる。選手を育てるためには、コーチがやる仕事と自分がやる仕事があり、監督はそれを判断していかなければならない」ということでした。

ここまでの西武の成績についてですが、これは完全に私の個人的な意見ですが、今年は外国人選手2人のパフォーマンスが悪かったと思います。もう少し頑張ってもらえれば、成績も多少変わっていたのではないかと思います。商工会議所の広報委員の取材の際に、この選手たちを連れてきたのは誰かというと、フロントで、松井監督が決めたわけではないとお話されていました。

何が言いたいかというと、組織として出た結果は重んじて受け止めなければならず、今回の松井監督もそれで責任を取られたのではないかと思います。本当に厳しい世界だと痛感しました。我々も会社経営をしているので、同じことが言えると思います。

伊原監督は現在、あまり解説など表舞台に出ているわけではありませんので、またぜひこのロータリーにお招きして、いろいろなお話を伺いたいと思っています。松井監督とはそれほど交流はありませんが、落ち着いたらぜひお越しいただき、裏話なども聞かせていただければと思います。まとまりのない話になりましたが、以上です。ありがとうございました。

幹事報告

道口 泰己幹事

皆様、こんにちは。それでは、幹事報告させていただきます。まず初めに、例会予定の報告をさせていただきます。

【例会予定】
6月4日火曜日の例会はクラブ協議会になっております。今年度の理事の皆さん、小委員長の皆さん、今年1年間熱く活動してきたことを語っていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
6月11日火曜日の例会はホタル観賞会になります。
6月18日火曜日は定款の規定により休会になります。
6月25日火曜日は最終夜間例会になります。会場は掬水亭になります。

【各種報告】
・本日午後4時より、所沢市こどもと福祉の未来館において、担当市職員、市内5クラブ会長、幹事出席のもと、市内5クラブ共同事業における椅子の設置(2基)の贈呈式を行います。
当クラブは、会長、幹事と栗田社会奉仕委員長にて出席してまいります。
・5月18日土曜日、秩父羊山公園内のロータリーの森で、ロータリーの森奉仕活動が行われました。今日は、栗田社会奉仕委員長がお休みのため、井関国際奉仕委員長から委員会報告をいただきます。

それでは、幹事報告の方、終わらせていただきます。ありがとうございました。

副幹事より

市川 雅已副幹事

本日、鳥居会長エレクトはロータリー世界大会にメイキャップで参加中でございます。皆様によろしくお伝えくださいとのことでした。

ポール・ハリス・フェローの認証

井関 克行さん
吉田 慶さん

ロータリー財団への寄付にご協力いただきました2名の方々に、ポール・ハリス・フェローの認証の記念品が届いております。
現在、円安の影響でロータリーレートも高額となっております。お二人には例年とは異なり大変高額な寄付をしていただきました。心より感謝申し上げます。

委員会報告

井関 克行 国際奉仕委員長

皆様、こんにちは。国際奉仕委員長の井関です。
本日は、社会奉仕委員長の栗田が欠席とのことで、私が代わりに委員会報告をさせていただきます。


先ほど道口幹事からお話がありました通り、5月18日の土曜日に秩父の羊山公園内にあるロータリーの森で清掃活動を行いました。所沢クラブからは10名のメンバーが参加し、清掃活動に取り組みました。

ロータリーの森には所沢クラブの木がありまして、他のクラブの木も森の中にたくさんあります。主幹である秩父さんを除いて、おそらく所沢クラブが最も多くのメンバーで参加していたのではないかと思います。皆さん本当に一生懸命に下草を刈って綺麗にしました。ビニール袋20袋ほどの葉っぱを集め、森は非常に綺麗な状態になりました。

他のクラブの方々は2、3名の少人数で参加されているクラブや、年配の方が参加されているクラブも多かったため、「ちょっと手伝ってくれないか」とか「この木を持って行ってくれないか」というように、結構頼まれることがありましたが快く引き受けました。その後、せっかくなので、西武秩父駅前温泉 祭の湯に入り、汗を流した後は、秩父名物のホルモンを食べ、非常に賑やかで楽しい時間を過ごさせていただきました。

会からは交通費や食事代などの費用を援助していただき、本当にありがとうございました。来年も多分同じメンバーで参加する予定ですので、しっかりと取り組んでまいりたいと思います。以上です。ありがとうございました。

参加者:
栗田社会奉仕委員長、橋本さん、本橋さん、木村さん、井関さん、肥沼さん、三浦さん、井花さん、吉田さん、加藤さん

スマイルボックス

スマイルボックス委員会
柳 麻貴 副委員長

五十嵐年度:645,500円

では、皆様、こんにちは。スマイルボックス委員会よりスマイルボックスの発表の方をさせていただきます。本日は11名の会員の方に参加をいただきました。
本年度残りあと1万5000円というところまできました。次回6月4日の例会で、通常例会が最終になりますので、理事、各委員長の皆様は必ずご参加のご協力のほどよろしくお願いいたします。

三上 誠さん
本日は所用により欠席ですが、21日に行われた第2回五十嵐年度親睦ゴルフにてメンバーの方に恵まれまして優勝させていただきましたのでニコニコさせていただきます。

池田 安弘さん
私事ですが、ニコニコします。本日で79歳になりました。まだやりたい事、やらなければならない事がありますので、もう少し仲間に入れてください。ある人の言葉ですが「人生に夢があるのではなく、夢が人生をつくる」を実践したいと思います。

市川 雅已さん
ヤナギさん、サヅカさん、イニシエーション、がんばって下さい。楽しみにしています。

二上 昌弘さん
本日は、佐塚さん、柳さん色々楽しみにしております。

井関 克行さん
先日のロータリーゴルフコンペで準優勝させていただきましたので、ニコニコさせて頂きます。

日髙 勉さん
五十嵐年度ラスト1ヶ月!!なのでニコニコします。前回はタイよりzoom参加させて頂きました。あと一ヶ月例会を楽しみます。

日向 貴一さん、
柳さん、佐塚さん、スピーチ楽しみにしています。頑張ってください。

橋本 幹男さん、
柳さん、佐塚さん、本日はイニシエーションスピーチお願いします。残念ながら欠席なので週報を楽しみにしています。

佐塚 慶輔さん
本日、ついにこの日が来てしまいました。とりあえずニコニコして気をまぎらわします。皆様宜しくお願いします。

倉片 順司さん
本日、業務の都合で早退します。

柳 麻貴さん
とうとうこの日が来てしまいました。大変緊張しております。皆様あたたかい目で見守っていただければと思います。

出席率発表

出席向上委員会
瀬戸山 達郎 委員長

総数:60名
出席:38名(うちZoom 1名)
欠席:22名

本日の出席率:70.37%

卓話 イニシエーションスピーチ

講師紹介
プログラム委員会
吉田 慶副委員長

皆さん、改めましてこんにちは。それでは、今日、イニシエーションスピーチということで、柳会員と佐塚会員にお願いをしております。

柳会員と佐塚会員のご紹介をさせていただきます。

柳さんは令和4年から株式会社そごう西武の西武所沢S.C.の館長を務めています。当クラブへの入会は令和4年ですが、年齢については詳しくは存じません。ただ、柳さんについては、結構お酒が強いということを存じています。今日はイニシエーションスピーチとなりますが、5分程度お話を伺った後、なんとバイオリンの演奏をしていただけるとのことです。皆様も楽しみにしていただければと思います。

佐塚さんの略歴についてですが、佐塚さんは2017年に埼玉りそな銀行所沢東口支店長を務めた後、現在は2023年4月より所沢支店長を務めています。当クラブへの入会は令和5年6月です。佐塚さんはいつも大変お忙しそうで、立ち話程度しかお話したことがありませんが、今日は佐塚さんのことをより知る良い機会だと思いお願いをしました。

それでは、柳さん、佐塚さん、どうぞよろしくお願いいたします。

柳 麻貴さん

改めまして皆様こんにちは。
本日はイニシエーションスピーチの機会を頂戴いたしまして、ありがとうございます。

本日は、「父と私」と「西武と私」という二つのエピソードを約5分ほどお話しした後、久しぶりのバイオリン演奏となるのですが、皆さまに少しだけ披露させていただければと考えております。

先ほど、年齢が分からないとおっしゃっていただきましたが、私は昭和48年12月22日に練馬区大泉学園で柳家の次女として生まれました。兄は私より11歳上で、姉は6歳上です。父は昭和3年生まれ、母は昭和7年生まれで、私はいわゆる遅い子ということになります。

父は私が中学1年の時に病死しました。母は現在、施設に入居しています。3年前に2件目の施設に移りました。柳家は二世帯住宅なのですが、私は二世帯住宅の1階で悠々自適に1人暮らしをしています。今後の展開はわかりませんが、現在は1人暮らしをしています。

父の仕事の話をさせていただくと、母方の事業を継承して、ベビーカー会社「アオバ」を経営しておりました。私が生まれた第2次ベビーブームの1973年以降、競合他社の台頭もあり、通常のベビーカー販売から、貸しベビーカー業に事業展開をしました。私の現在の会社のような百貨店やアミューズメントパーク、公園などに、貸しベビーカーを提供する事業を展開をしていました。今でも私の記憶に残っているのは、1983年にディズニーランドがオープンした際に、親族一同で内覧会に参加し、ディズニーランドに行ったことです。現在は廃業しており、西尾久に土地と建物が残っています。今後の計画については未定ですが、現時点では廃業している状況です。


父について少し話させていただくと、彼は忙しい仕事の合間の日曜日に、朝からワインを飲みながら寝転がってオペラを聴く、そんな風に過ごすことが多かったです。仕事が忙しい中でも、小学生の私にいろんな話をしてくれました。たとえば、バリアフリーの意味や、田中角栄が好きだったようで田中角栄のことなど、酔っ払いながらでもよく教えてくれました。

父が仕事をどのようにしていたかはよくわからないのですが、小学校の運動会では、いつも朝一番に三脚を立ててビデオの位置を確保し、また、なぜかスキー教室にもついてきて、隣でビデオを回しながら一緒に滑っていたことを覚えています。私は3歳の頃からバイオリンを習っていたのですが、そのバイオリンの夏合宿にはいつも父と母が送迎をしてくれました。その際には、私が兄弟で年が離れている末っ子とだったいうこともあり、父と母と3人で愛車のセドリックに乗って長野などへ旅行したことを思い出します。

私はそういった記憶があるので、私と近い年代でパパになる方たちや、40代や50代でパパになる方がいらっしゃいます。そんな方々には、くれぐれもお仕事とお酒のバランスに気を付け、健康に留意して、子供のために長生きしてほしいという話を飲みの席でも話しております。


次に、ちょっとだけ私と西武のお話をさせていただきます。私は、生まれも育ちも練馬区在住で、都立大泉高校を卒業し、立教大学に進学しました。そして、西武百貨店に入社しました。そのため、生活圏はかなり狭く、ずっと西武線沿線に住んでいるかなりドメスティックな生活を送ってきました。

1996年に西武に入社して以来、その当時は大変な時期でしたが、ラグジュアリーブランドのアルマーニやエルメスなどの導入に関わる機会を得て、2年目や3年目にそれを担当することができました。また、アメリカの有数の大型百貨店であるノード・ストロームに研修に行く機会もありました。私は30代の頃には雑貨のバイヤーを務め、その頃は年に5、6回、パリやミラノ、ニューヨークに出張する機会がありました。この会社に関わることが、私にとって社交性を身につけ、視野を広げるきっかけとなったと思います。会社に対して感謝の気持ちでいっぱいです。


最後に、バイオリンについてお話しします。私は20代後半から30代前半にかけて婦人服の係長をしており、その時はお得意様をお招きして、自ら企画を立てて店頭でバイオリンを演奏していました。それ以来、約20年ぶりになりますが、今回は短い曲を1曲演奏させていただきたいと思って準備をしてまいりました。ほんの少しだけの演奏ですがどうぞよろしくお願いいたします。なお、久しぶりの演奏なのでアンコールやアレンジはできません。1曲だけお楽しみいただければと思います。

(君が代演奏)

拙い演奏で大変失礼いたしました。今後ともよろしくお願いいたします。

佐塚 慶輔さん

皆さん、こんにちは。
柳さんのスピーチとバイオリンの後、何かできることはないかと考えましたが、私はカスタネットくらいしかできないので、楽器は難しいですね。ですので、サラリーマンの薄っぺらい人生について少しご紹介させていただければと思います。よろしくお願いいたします。

私は1971年8月20日に生まれました。昭和46年生まれです。台湾の台北で生まれ、幼少期は台湾で過ごしました。亥年の獅子座で、体型はこんな感じで、ガツガツしているように見えるかもしれませんが、意外にも自分で優しいタイプだと思っています。

1971年は団塊世代ジュニアと呼ばれる世代に属します。この時期、毎年200万人以上の子供が生まれ、特に46年から48年頃にかけては出生数が増加していました。そのため、学校や幼稚園への入学には人が多くて入れないケースもあったようです。それから、中学や高校時代は景気も良く、バブル時代でしたが、私自身はあまりその実感はありませんでした。大学生時代にはバブルが崩壊していましたが、それもあまり気づきませんでした。そして、就職活動の時期には、就職難という状況で大変な思いをし、そんな経験をしてきました。

父も母も静岡県静岡市で生まれ、父の実家は農家でした。母は材木屋の末っ子で、両親とも兄弟姉妹の中で8番目に生まれました。昔から親戚や法事があるとどこの親戚がどこかよくわからないほど、親戚が多かったのですが、今はほとんどの方が亡くなり、親戚付き合いも少なくなりました。そんな環境の中で、父と母、そして私と妹の4人家族で、私は東京の大森で育ちました。

父は株式会社山善という工作機械の商社でサラリーマンをしており、台湾の駐在員をしていた時に私がそこでたまたま生まれたということになります。

小さい頃は日本に戻ってきた頃で、2歳ぐらいだったので、あまり喋れなかったと思います。日本語は全く喋れず、台湾語か北京語か、そんな言葉を話していました。おばあちゃんは、「この子は変な言葉を話すね」と言っていたそうです。しかし、今ではその言葉を全く覚えていません。中国語を話せたら、もしかしたら違った人生だったかもしれませんが、台湾の味や雰囲気は覚えています。父が亡くなる前に家族で旅行に行った際、その味をとても覚えていて、台湾が第2のふるさとのように感じた記憶があります。

私は大森で小学校、地元の小学校、そして中学校を経て、都立三田高校に進学しました。三田高校時代は、水泳に一生懸命取り組んでいました。これが人生で初めて部活動に本気で取り組んだ時期でした。種目はなぜか平泳ぎ(ブレスト)とバタフライの200メートルでした。都立の大会などにも一生懸命取り組みました。三田高校には温水プールがあり、毎年秋頃までしっかりと練習でき、真剣に取り組んでいました。その頃の体重は今より25キロから30キロほど軽かったです。高校時代は逆三角形の体型をしていましたが、引退をしたら逆のような台形な体型になってしまいました。高校3年生まで部活動に打ち込んでいたために大学には合格せず、一浪して青山学院大学の経営学部に入学しました。

大学生の頃に一生懸命取り組んだのは、スキーでした。体育会のスキー部はオリンピック競技の大回転やスラロームなどの競技スキーですが、私が所属していたサークルが行っていたのは基礎スキーで、私は一生懸命取り組んでいました。1年間で約90日ほどスキー場に通い、12月後半から3月いっぱいまで、試験期間以外はほぼスキー場にいました。そんな学生時代を過ごしていました。年に3回、スキーのサークルで合宿があり、その期間中はスキー場でアルバイトをしながら生活していました。合宿の費用は約50万円でした。シーズンオフの間はアルバイトをしてお金を貯め、冬に備えました。学生時代はほとんど勉強せずにスキーに打ち込んでいたというわけです。

そして、3年生の3月、いよいよ就職活動が始まる時期でした。しかし、私は全く勉強もしておらず、就職難ということもあまり知らずに、スキー場から会社にはがきを送り、説明会などに参加しようと考えていました。しかし、東京に戻ってみると、実際はかなり大変な状況であり、遅ればせながら先輩訪問などを4年生の4月からはじめました。当時、文系の大学生に人気の就職先ランキングで、都市銀行や総合商社、JTBなどが名前であがっていました。移動通信や携帯電話の企業も人気が高かった時期でした。私は何も考えず、当時のトレンドである都市銀行を片っ端から受けることにしました。

志望動機もあまりはっきりしていませんでしたが、当時、「αGEL(アルファゲル)」という衝撃吸収剤が注目されていました。その技術を静岡の会社で開発している「株式会社タイカ」という小さな会社が特許を持っており、テレビでその製品が紹介されているのを見たことがあります。驚くべきことに、この衝撃吸収剤はビルの6階から18メートルの高さから卵を落としても割れないという実験を行っていたのです。このような中小企業の技術力に興味を持ち、大企業だけでなく、世の中にはこうした中小企業がたくさん存在することを知りました。今、銀行員として30年経験してみて、就職活動当時、おぼろげながら自分で感じていたものを一生懸命志望動機を話していく中で徐々に本当に自分がそう思うようになっていき、それが今の自分の基盤となっているように思います。そして、志望動機は、日本企業の99%が中小企業であることから、その中小企業の支援に関わりたいという想いを持ち、この思いを銀行の人事担当者に真剣に伝えていました。

縁があり、1995年にあさひ銀行に入社しました。あさひ銀行は都市銀行の中では下位に位置していましたが、他の銀行も選択肢にはありました。しかし、あさひ銀行はどこの財閥や企業グループにも属さない独立した企業銀行であり、また中小企業や個人のお客様に力を入れてサポートしているという点で、それが魅力的でした。そのため、最終的にはあさひ銀行を選んで入社することにしました。
ただ、その時期はバブルが崩壊しておりました。私はほとんど融資業務に携わってきました。当時、半沢直樹でおなじみの大蔵省や金融庁の検査が入ると、かなり大変でした。年に1回程度、検査があり、その際はほぼ夜遅くまで帰れない日々が続きました。資料の作成などもあり、そうした経験が、私の銀行員としてのキャリアを形作ってきたように感じています。

その後、五反田に配属され、渉外業務の経験を積みました。自ら顧客のもとに出向いて営業するという経験でした。待っているだけではなく、自ら積極的に行動する姿勢が求められる仕事でした。短い経験でしたが、五反田は非常に興味深い場所でした。もともとソニーが存在しており、電気製品の下請け工場も多く残っていました。また、当時は渋谷よりも賃料が安いため、インターネット関連の企業も五反田に進出していたりしました。そのため、五反田は賑やかで多様な街でしたが、私の銀行員としての経験の中で、非常に貴重な経験を積むことができた場所でした。

その後、初めて埼玉県の東松山に融資課長として赴任しました。この時期には「りそなショック」と呼ばれる出来事が起こりました。あさひ銀行は東海銀行との合併を模索しましたが、その後三和銀行が介入してきたことで、合併構想から離脱をし、株価が100円を切るなど非常に厳しい時代となりました。最終的には、大和銀行との合併を経て「りそな銀行」が誕生しました。この合併は2003年3月にスタートし、その5月には公的資金が投入されたことが知られています。普通に考えれば、3兆円もの公的資金が投入されるということは、実質的には会社が経営破綻していることを意味します。当時、金融破綻や銀行破綻ではないとされ、公的資金が注入されることで自己資本が増強されるという説明を竹中さんがされました。しかし、私の中では、実質的には一度は会社が倒産したと思いました。本来なら転職も考えましたが、元々その銀行で働くことを志して入社したので、そのままその時を乗り越えることにしました。そういう経緯で、りそなショックの時も、なんとなく銀行にとどまることになりました。周囲では同僚も次々と辞めていきました。

当時、JRから来た細谷英二会長が改革を進めるということで、「最初の100日が重要だ」と言われました。りそなは銀行であり、まずは普通の会社としての基盤を築くことが重要であり、次にサービス業であることを忘れてはならないと話されました。そして、改革は最初の100日で進めるべきだということが強調されていました。こうして一気に改革が始まりましたが、従業員はかなり動揺していました。6月の中旬に支給される予定だったボーナスが支給見送りとなり、賞与を含む年収が30%削減されることになりました。さらに、支給が決まっていたOBの年金も受給割合が減り、減額されることが決まり、自分たちの生活がどうなるか不安に思いながらも、改革が進んでいく様子を目の当たりにしていました。その当時、私は会社の従業員組合に2年間専従していました。その間、30%削減の話などを組合員に説明しながら、会社が次々と打ち出すさまざまな改革を各支店に行って説明するという業務を行っていました。今までの銀行業務とは全く異なる仕事でしたが、人のモチベーションが簡単に下がることや、下がったモチベーションの組織を動かすのが非常に大変であることを痛感しました。その時の経験が、今になって非常に役立っていると感じています。この時が、おそらく人生で一番働いていた時期だったと思います。土日はほとんどなく、帰宅も夜11時頃で、タクシーで帰ることも多々ありました。それでも「会社は変わらなければならない」と皆に説明しながら進めていました。自分自身に「これが今の自分の仕事だ」と言い聞かせてやってきました。そんな2年間は非常に厳しかったですが、会社も黒字化し、自分も徐々に通常の銀行業務に戻り、その後は営業店で融資業務を行いました。


いくつかの埼玉県内の支店で融資部長や副支店長を経て、現在に至っています。皆さん、以前のドラマ『半沢直樹』をご覧になったでしょうか?「やられたらやり返す、倍返しだ!」というセリフが有名だと思いますが、私の中では「大事なのは感謝と恩返しだ。その二つを忘れた未来は、ただのひとりよがりの絵空事だ。これまでの出会いと出来事に感謝し、その恩返しのつもりで仕事をする。そうすれば、必ず明るい未来が開けるはずだ」という言葉が印象に残っています。まさにその通りだと思います。我々の銀行は、地元のお客様たちに支えられて今があります。地元のお客様は長くその地で商売を続けておられますが、私たちは銀行の都合で2~3年で異動してしまいます。過去には金融情勢や経済情勢の変化により、銀行都合で違うことを言ったり、ご迷惑をおかけすることもありました。それでも、誠心誠意お話をしていれば、お客様も理解してくださったのではないかと思います。しかし、過去の私たちにはそれが足りなかったのだと感じています。だからこそ、私は過去のことを持ち出されるのが一番嫌で、今いるお客様に真摯に向き合うことを支店の皆に伝えています。お客様からの依頼事項に対して、時にはできないこともあるかもしれませんが、そのできない理由をきちんと説明し、真摯に向き合って対応し続けることで、きっと信頼にも繋がるでしょう。それが、今出会っているお客様に対して、きちんと恩返しをしていくことだと考えながら仕事をしています。そんな思いで日々取り組んでいます。

拙い話ですが、この30年間、仕事を続けてきて感じるのは、どうにもならないことがたくさんあるということです。私も金融情勢に翻弄されてきた銀行の一員として、自分ではどうにもならないことに直面してきました。しかし、その中でどうにかしようとするのは非常に難しく、目の前の課題に真摯に向き合いながら取り組んでいくことが私のやり方だと考えています。所沢支店には約80人の職員がいますが、朝礼などでこの考えを共有し、りそなの職員が地元の方々としっかり向き合って仕事をしていけたら良いなと思っています。

私はあと1年ほど所沢に在任する予定ですが、精一杯頑張りたいと思います。所沢で最後まで全力を尽くすつもりですので、皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

池田さんバースデースピーチ

池田 安弘さん

先ほどニコニコで発表しましたが、本日ちょうど79歳になりました。親からは1945年5月28日に生まれたと聞いており、そう思っています。本当かどうかはわかりませんが、そのような言い伝えがあります。ということで、今日はちょうど79歳の誕生日です。

今日も朝、会社に行きました。会社は10時から始業ですが、社員はほとんど9時半頃に来ます。私はいつも朝8時から8時半の間に出勤しています。私が一番早く出勤しています。社員の通り道に真ん中に私のテーブルがあり、そこに座っているのですが、私の会社は22人ほどの小さな会社ですが、なんと全社員が「おはようございます」と言った後、「誕生日おめでとうございます」と言って全員が祝ってくれました。そこで、私はある社員に「みんなに言うように指示したんじゃないの?」と聞いたところ、そうではなく、ほとんどの社員が私の誕生日を覚えていてくれたとのことです。本当に幸せで、ありがたく思います。

話は変わりますが、何度も同じことを言っていますが、私は秋田の山奥の出身です。1、2週間前に、秋田でくまに警察官が襲われたというニュースがありましたが、そのところからさらに車で30分ほどの山奥の出身です。所沢ロータリークラブの会員の中には2世、3世として恵まれた環境で育ってきたと思います。親の代から受け継がれたとものがあるという恵まれた環境がとても羨ましいです。五十嵐さんも似ているかもしれませんが、私は所沢に知り合いが一人もいない状況で始まりました。たまたま隣に大川家具がある場所で店を始めました。恥ずかしい話ですが、田舎から出る時には、当時の金額で4万円以下しか持っていませんでした。それ以降、一銭も田舎からも、誰からも援助を受けたことはありません。

現在の私があるのは、まずはこのロータリー、次に商工会議所、そして業界の照明経営研究会という3つの出会いのおかげです。これらの会に本当に感謝しています。開業は32歳の時でした。所沢には1人も1件も、知り合いも顧客もいませんでした。コンビニができてから50年が経ったと最近知りましたが、私は開業して47年が経ちました。開業当時、照明器具の照の字も知らない時代で、ほとんどの人が私のことを「電気の傘屋」と呼んでいました。今でこそ、所沢の地域の方々や協会はイケダ照明を知っていますが、開業当時のイケダ照明については全国的にはまだ知名度がありまなく、自分も工場で照明器具を作っていたので、本当に全てが井の中の蛙の状態でした。しかし、ロータリー、商工会議所、そして照明経営研究会との関わりによって、全国的な知名度が上がりました。業績や利益が全国で1番になることはありませんが、業界内ではトップクラスに位置づけられるようになりました。今回、たまたま縁がありまして、今度エミテラスに出店することになりました。最初に相談したのは市川さんで、2番目に相談したのは平岩さんの弟さんでした。ロータリー、商工会議所、照明経営研究会で出来た人の縁により色々と助けていただいて、多くの人に支えられています。素晴らしい仲間ができました。今があることに感謝しています。

ロータリーで同級生のロータリアンは、平岩さんのお父さんと三上武壽さんがいました。ともに20年生まれでしたが残念ながら2人も亡くなってしまい私1人になってしまいました。所沢ロータリーの中でも4番目か5番目の年長者となりました。79歳になりましたが、まだやらなければならないことややりたいことがあります。息子はエミテラスへの出店に反対しましたが、私は自分のお金を出してでも出店したい意思がありました。息子は自分が社長だと主張していますが、それでも私が出店を決めました。多くの人に支えられ、仲間に助けられて、今日にいたります。これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。

第2回親睦ゴルフ大会

ロータリー財団地区補助金による所沢市こどもと福祉の未来館へのベン チ贈呈式

5月28日(火)に、ロータリー財団地区補助金による市内5クラブ共同事業として、椅子の設置を行っています。今年度は、所沢市こどもと福祉の未来館へのベンチを2基贈呈いたしました。
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