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週報
Weekly Report

公開日:2023/10/17  内容:第2911回(2023/10/10)レポート

例会予定

**第2912回例会のスケジュール**
10/24(火)ガバナー公式訪問 市内5クラブ合同例会 講師:髙丹 秀篤様(深谷RC)(第2570地区 ガバナー)  会場:ベルヴィ ザ・グラン

**次回以降のスケジュール**
10/17(火)定款の規定により休会
10/24(火)ガバナー公式訪問 市内5クラブ合同例会 講師:髙丹 秀篤様(深谷RC)(第2570地区 ガバナー)  会場:ベルヴィ ザ・グラン
10/31(火)定款の規定により休会
11/7(火)卓話 講師:土肥 正和様(株式会社Wings 代表取締役)  演題:「これからの時代に必要な採用戦略、人材獲得競争の考え方」 会場:ベルヴィ ザ・グラン

会長の時間

五十嵐 俊昭 会長

皆様、こんにちは。昨日と今日の気温の差が非常に激しいので、皆様はご自身の体調に充分に気をつけて行動していただくことをお願いします。

今月は「経済と地域社会の発展月間」と「米山月間」として設定されております。円安の進行により、日本の経済について不安を感じる方もいらっしゃると思いますが、私たちはこの地域を守り、そして自社と地域を支えていくことを思っています。

ところざわまつりが日曜日に行われました。当クラブ所属の商工会議所副会頭の3人も活躍し、多くの人々が参加しました。久しぶりの屋台も出店しており、所沢にこんなに多くの人々がいることに驚きました。この賑やかなお祭りも、地域社会の発展の一環であると思います。

また、私はいつもスポーツについて話す機会をいただいております。今日はラグビーについてお話したいと思います。ラグビーのワールドカップの予選最終ラウンドが始まりました。アルゼンチンに対して、惜しくも格上の相手であるかもしれませんが、残念ながら敗北し、W杯予選プールで敗退という結果となりました。ラグビー好きの方にとってはショッキングなことでしょう。しかし、知られていないことかもしれませんが、日本は負けてしまいましたが、2027年のワールドカップへの出場権は獲得しています。つまり、予選を経ずに、2027年のワールドカップへの出場が確定しています。これだけでも喜ばしいことだと思います。今日の卓話はサッカーに関するお話ということです。スポーツの秋はまだ続いています。私も個人的にスポーツを応援し続けたいと思います。

これから、気温の差が大きく、寒い季節になっていきます。また、コロナも再び広がりつつあるようですので、皆様、ご自身の健康に充分気をつけて行動していただくようお願い申し上げます。どうぞよろしくお願いいたします。以上です。

幹事報告

道口 泰己幹事

皆様、こんにちは。それでは、幹事報告をさせていただきます。

【例会予定】
本日、10月10日火曜日の例会は、卓話です。講師に、JOLTIVA Jr.Youthの代表、金沢 浄様にお願いしております。金沢様、本日のご講演、よろしくお願いいたします。
10月17日火曜日は、定款の規定により、休会になります。
10月18日水曜日は、第1回五十嵐年度親睦ゴルフ大会を開催いたします。
10月24日火曜日の例会は、ガバナー公式訪問 市内5クラブ合同例会になります。詳細につきましては、メールおよびfaxにてお送りしています資料をご参照ください。
10月31日火曜日は、定款の規定により、休会になります。
11月7日火曜日の例会は、卓話です。講師に株式会社Wings 代表取締役 土肥 正和様にお願いしております。演題は、「これからの時代に必要な採用戦略、人材獲得競争」の考え方です。
11月14日火曜日は、例会振替になります。振替といたしまして、11月10日金曜日、11月11日土曜日、五十嵐年度の親睦旅行になります。詳細状況などは、親睦委員会より委員会報告がございます。

【各種報告】
青少年育成所沢市民会議様より、この会は所沢西RCの須澤パスト会長が会長なんですけども出席要請が来ております。青少年奉仕委員会の日髙委員長に対応お願いしております。

最後になりますが、先週の10月3日火曜日に、齋藤栄作ガバナー補佐によるクラブの書類点検を1時間にわたり受けました。特に大きな問題点や指摘事項はございませんでした。これは事務局の田中さんのおかげだと感じております。

以上、幹事報告を終わらせていただきます。ありがとうございました。

ロータリーの友 10月号の紹介

広報雑誌委員会
斉藤 祐次 委員長

それでは皆様方、お手元にありますロータリーの友についてちょっと紹介をします。

【横組み】
4ページを開くと、RI会長のメッセージが掲載されています。先ほどの会長のお話では、日本では「地域社会の経済発展月間」とされていますが、RIの会長からは10月10日が「世界メンタルヘルスデー」として位置づけられており、その内容が記載されています。また、特に右下の部分では、10月10日を世界メンタルヘルスデーを記念する日とし、会長の言葉が記載されていますので、ぜひお読みいただくことをおすすめいたします。

7ページからです。特集のテーマは地域社会の経済発展「若者の自立を促す支援のカタチ」となっています。写真を見て、関心を持たれた方は多いでしょうが、8ページを開くと、特集が続きます。

8ページでは「STEP1 学ぶ」というタイトルで、まず学ぶというテーマに焦点を当て、NPO法人の方が、児童施設や養護施設で暮らす子供たちが18歳になった後に直面する課題について記載されています。特に、これまで施設で生活していた子供たちが18歳になると自立しなければならない状況において、生活のすべてを含む自立に関する課題が詳しく語られています。したがって、まずは「学ぶ」という視点から、現実の状況についてご覧いただくことをお勧めします。


10ページに進むと、「STEP2 知る」というテーマに移り、実際に児童施設で育った子供たちがその後どのように過ごしているかに焦点が当てられています。10ページからは、ブローハン聡さんの自身の成長経験や、過去の支援に感謝しつつ、今度は支援の側に立ちたいというストーリーが紹介されており、12ページをご覧いただけます。また、先ほどの7ページで可愛らしい子供の写真が載っていましたが、この方も施設出身の方で、「可哀そうは違うよ」ということで、自身の過去とどのように向き合ってきたかが語られています。また、ロータリーの奉仕活動に参加し、ローターアクトクラブにも所属していたことが紹介されています。この内容も読み進むと、興味深いと感じることでしょう。最初は「学ぶ」、次に「知る」、そして13ページに進むと、「STEP3 活動」というテーマに移り、これらの人々にどのような支援を提供すべきかについて語られています。特に、ロータリーが関与している部分が紹介されているため、ここからもご覧いただくと良いでしょう。特に、14ページの下部分には、「ロータリーアンの人情が支えに」という見出しがあり、実際に施設を出て会社に就職し、成功を収めている事例が示されています。この内容を通じて、自身の会社でも何か支援できる可能性を感じることでしょう。

15ページからは、米山月間となり、先ほど会長がお話しになった通り、今月は米山月刊特集記事が掲載されています。この特集は、学友世界大会に焦点を当てており、筑波での集会について3ページにわたり詳しく説明されています。その後、18ページからは米山記念奨学金に関する数値データや情報が提供されております。そして、20ページからは「皆さまと共に成長する米山梅吉記念館を目指して」という米山梅吉記念館の記事が掲載されていますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

22ページからは、全国からロータリークラブの25合唱団が神戸に一堂に会して親睦合唱祭が行われた報告が掲載されています。

24ページからは、ロータリーの国際大会がシンガポールで行われた際の現地の様子についての記事が掲載されておりますので、ぜひご一読ください。26ページ以降には、シンガポールがどのような町であるかや、見どころについての情報が含まれており、28ページあたりからは、自然に囲まれたこの町の特徴が語られ、30ページからは、多文化が交わる魅力的な街であることが紹介されています。これらの記事を通じて、シンガポールの魅力をご理解いただけることでしょう。


【縦組】
4ページからは、企業による障害者雇用の取り組みが特集されています。もし障害者雇用を検討している企業の方がいらっしゃる場合、あるいは今後その方針を考えている場合、この特集記事は参考になるでしょう。この記事は、2710地区のロータリークラブが開催したIM記念公演で述べられた要点をまとめたものです。言葉遣いに口語的な要素が含まれているかもしれませんが、ぜひご一読いただくことをおすすめします。

9ページをご覧いただきますと、9ページに目を通していただくと、大分県の日田ロータリークラブの井上百合さんについての記事が掲載されています。彼女は老舗蔵元の7代目で代表取締役を務め、女性の杜氏であり、さらにロータリークラブにも所属している方です。この記事では、彼女の訪問に焦点を当てており、読むことで彼女の活動と努力について理解できるでしょう。

13ページをご覧になってください。このコーナーは毎月行われており、「ご飯のお供」というテーマのもと、日本の食材に関する話題がメインです。今月の記事では漬物に焦点を当てており、お読みになると面白いと思います。皆さん、黄色い大根の漬物を指す際、たくわんとたくあん、どちらの言葉を使っているかについて考えたことがありますか?どちらが正しいのかについても記事で触れられているので、ぜひご覧いただいてください。また、ウナギを食べる際に出る香の物について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか?通常、ぬか漬けが出されると感じる方もいるでしょう。なぜウナギと奈良漬けが組み合わさることがあるのかについても記事の後半で触れられていますので、それもぜひご一読いただくと良いでしょう。


14ページから、俳壇、歌壇、柳壇の各部門で俳句、短歌、川柳の作品が掲載されており、一部の作品には講評も付いています。一番上の段は、テレビでお馴染みの俳人夏井いつきさんによる選集です。夏井先生の選集には、かなり深い内容も含まれていることが多いです。解説が付いているので、それをお読みいただくことをお勧めします。私が紹介したいのは、左側のページの2つ目に「梅花藻の 流れに浸す 黄帽子」という句が掲載されています。梅花藻という言葉が分からないかもしれませんが、実はこれは「バイカモ」とも呼ばれ、水草の一種で、清流に生える水草です。小さな白い花を咲かせ、その花が梅の花に似ていることから「梅花藻」と呼ばれています。これは俳句の季語で、梅花藻は水温が約14度から17度の綺麗な水中で咲く花で、開花の時期は6月から9月までです。9月になると水温が下がり、梅花藻が咲くことがあるのです。この句では、梅花藻が流れに浸す黄色い帽子になっている様子が詠まれています。黄色い帽子が何を指しているのかはっきりしませんが、9月ということから、おそらく新入学生が黄色い帽子をかぶって学校に通い、夏休み明けに清流で帽子を浸して涼む風景を表現しているのではないかと考えられます。要するに、季節の変わり目に感じられる涼しさを詠んでいると思われます。一番下の川柳の段には、三遊亭白鳥さんにより、すべての句に解説がついております。幅広いジャンルの句を取り上げていますので毎月楽しむことができます。これらの作品を読むことで、俳句、短歌、川柳の魅力を体感できるでしょう。

16ページからは「友愛の広場」というコーナーで、クラブの会員からの投稿が掲載されています。これらの投稿をぜひご覧いただいてください。特に17ページには、クラブの会員が100マイルレースを完走したことが報告されています。この記事を読むことで、闘志を燃やす人々にとっても良い刺激になるかもしれません。私はやりません。

21ページでは、卓話泉のコーナーで「意外と知らない日本酒の話」が紹介されています。この記事は、日本酒に関する面白い事実から始まり、国税庁の国示によれば、日本酒は原料の米に国産米のみを使用し、かつ、日本国内で製造された製種に限り、日本酒と表示してもよいと規定されていることから語り始めています。この記事は、日本酒に関するトリビアや話のネタとして面白い情報を提供しています。ここにいる皆さんはおそらく記事を読むことにより知っていることでしょうから、話のタネに使用するのは難しいかもしれません。でも、新たな知識として楽しんで読むことができるでしょう。



【再び横組み】
48ページでは、詰将棋について紹介されていますが、詰将棋が好きな方におすすめです。詰将棋は将棋の戦術や戦略を楽しむためのゲームで、好きな人にとっては楽しい挑戦となるでしょう。

また、44ページでは「パズルdeロータリー」と題されたパズルコーナーが掲載されています。ここでは数独と呼ばれるパズルが紹介されており、難易度は星4つとなっています。実際に挑戦してみたところ、案外難しかったです。数独は論理的思考と推理力を鍛えるのに良いゲームです。暇なときに挑戦してみる価値があるでしょう。また、解いた答えを投稿すると、何か特典がもらえるかもしれません。お楽しみいただければと思います。


以上、ロータリーの友の紹介といたします。どうもありがとうございました。

委員会報告

親睦委員会
加藤 和伸 委員長

親睦委員会の加藤です。

皆様、ご案内の通り、来月、11月の10日(金曜日)と11日(土曜日)に、会長の肝煎りの新潟県への親睦旅行が予定されています。現時点での参加者は17名とちょっと寂しい数字です。大型のバスには50人ほどが乗れるのですが、17名ではちょっと寂しすぎると感じています。ですので、多くの方々にご参加いただき、楽しいひとときを過ごしたいと思っています。参加申し込み締め切りは16日(月曜日)ですので、皆様のご参加を心よりお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。

以上です。

スマイルボックス

スマイルボックス委員会
岩崎 貴行 委員長

五十嵐年度:223,000円

皆さん、こんにちは。本日は、たくさんの方々にスマイルボックスへのご協力をいただき、誠にありがとうございます。
それでは、発表したいと思います。

道口 泰己幹事
ニコニコします。

武藤 力夫様
二上さんからニコニコ言われましたのでご協力します。

池田 安弘様
ニコニコさせていただきます。

大野木 喜行様
落葉をなんとかしてください。

二上 昌弘様
金沢浄様、本日はお忙しい所、講師をお努め頂き、ありがとうございます。どうぞ宜しくお願いいたします。

栗田 峰至様
金沢様。本日はありがとうございます。卓話、楽しみにしております。

日向 貴一様
ところざわまつり、皆さんご来場ありがとうございました。観光協会エリアも盛況でした。

淺海 剛次様
特に何もありませんが、娘の七五三を祝してニコニコさせていただきます。

橋本 幹男様
金沢様、本日の卓話よろしくお願いいたします。

本橋 敬明様
プライベートで何もないのでニコニコします。

加藤 和伸様
所用の為、早退となります。

吉田 慶様
金沢様お忙しい中、卓話をお引き受け頂き、ありがとうございます。すごく楽しみにしております。

丸山 茂之様
金沢様、本日はお忙しい中、卓話を引き受けていただき、ありがとうございます。楽しみにしております。よろしくお願いいたします。

斉藤 祐次様
日曜日にところざわまつりが開催され、大変賑わいました。賑わいついでにスマイルボックス入れます。

佐塚 慶輔様
本日は急な所用が生じてしまい早退させていただきます。宜しくお願いいたします。

15名の方々からご協力いただきまして、ありがとうござました。

出席率発表

出席向上委員会
瀬戸山 達郎 委員長

総数:59名
出席:33名(うちZoom1名)
欠席:26名

本日の出席率:64.71%

卓話 演題:「サッカー人生と岐路」

講師紹介
丸山 茂幸 さん

皆さん、こんにちは。金沢浄さんなんですが、小学校、中学校、高校と全国大会に出場し、僕と同い年です。僕らの前後に埼玉県でサッカーをしていた方なら、彼のことを知らない人はいないでしょう。彼はかなり有名な選手です。大学卒業後に、ジュビロ磐田、FC東京など、Jリーグで活躍されました。現在は、入間市で、JOLTIVAJr.Youthの代表を務めておられています。

実は、今年の3月まで、自分の長男が行かせていただいていました。自分の長男は小学校1年生からサッカーをしていたんですが、6年生の10月、ちょうど浄さんのところでセレクションがある前日に、「俺もサッカーやめた」って言って、「もうやめてくる」って言って行った翌日に、次の日になって突然「セレクションを受ける」と言い出し、結果合格しました。
そのまま通わせていただいて、今は高校に通っています。高校も浄さんのおかげで、合格し学校生活を楽しむことができています。そろそろ浄さんにバトンタッチしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

講師:金沢 浄様(JOLTIVA Jr.Youth 代表)

こんにちは、私は金沢浄と言います。浄という名前は、私が生まれたときに父親が選んでくれた名前です。私が生まれたとき、「マサト」と「浄」の2つから選ぶことになり、最終的に「浄」に決まりました。その名付けた父と兄の影響で、私は6歳からサッカーを始めました。現在、私は47歳で、サッカーをプレーし続けた人生について話したいと思います。

サッカーを始めたきっかけは、先ほどお話したように、兄の影響といわゆる『キャプテン翼』というアニメの影響でした。私は、キャプツバ世代と呼ばれる世代で、アニメの影響を受けて、近所の子供たちもサッカーを始めました。当時、野球の方が人気があったと思いますが、次第にサッカーをする子供が増え、自分もサッカーをやりたいと思いました。それに加え、近所の友達がサッカーをしていたこともあり、自然な流れでサッカーと出会いました。そして、サッカーの魅力にすぐに取りつかれ、それ以降、長い間、サッカーを楽しんできました。

最初に、私が所属したチームは「仏子ブラックス」というチームでした。私は、入間市出身で、入間市の仏子小学校に通っていました。そこでサッカーを始めたのですが、初めはサッカーを習っているというよりも、単に楽しんでいた感じです。人生最初の試合は、1年生の4月に行われ、ルールもあまり理解していないまま試合をしました。結果は4対0で、私が4得点を挙げました。この瞬間は鮮明に覚えています。サッカーは何も知らなくてもうまくいったので、面白いと感じました。これがサッカーの魅力なのかもしれません。その瞬間から、私は本当にサッカーに夢中になり、今でもその記憶が鮮明に残っています。私は左足を利き足としていますが、その試合で左足で得点を重ねたことも、今でも鮮明に覚えています。その当時のサッカーは、キャプツバの影響を受けていたとはいえ、まだまだ一般的なスポーツとしての人気は高くありませんでした。当時、日本にはJリーグが存在していましたが、プロサッカーの試合はまだ行われておらず、海外の試合も観戦できる手段が限られていました。テレビ東京で土曜日の18:00から18:30に放送されていた「三菱ダイヤモンド・サッカー」を通じて、サッカーの情報を得ることができる唯一の機会でした。そんな中、サッカーを始めました。

小学校4年生の時、マラドーナが神の手でゴールを決めた1986年のワールドカップ・メキシコ大会を見ました。それが、初めての世界の試合観戦で、その瞬間に圧倒され、憧れを抱きました。確かに、マラドーナのプレーは驚異的で、その時点で「ワールドカップに出たい」という気持ちは抱かなかったものの、彼に憧れを抱きました。ただ、サッカーをするだけでなく、目標や夢が必要だと思うのですが、その時、私の目標となったのは、全国高等学校サッカー選手権大会でした。プロサッカーがまだない時代において、高校サッカー選手権は最高峰の舞台だと考えました。今でもこの大会は行われており、お正月にテレビで中継され、シュートを決めた選手の名前が呼ばれる姿を見て、そこで自分も名前が呼ばれたいという純粋な思いが芽生えました。当時、情報は限られており、プロリーグが存在しない中で、私の目標は高校サッカー選手権に出場することでした。

もう1つの夢となったのは、全日本少年サッカー大会です。この大会は小学校6年生が参加する全国大会で、埼玉県代表に選ばれるには1位になる必要があり、困難な道のりがあることは承知していました。それでも、何故か自分は出場できると勝手に考えて試合に臨み、全国大会への出場を夢見ました。もちろん、その夢に向かって努力も惜しまなかったのですが、自分に自信があったのかもしれません。全国大会に出場できない自分を想像しませんでした。練習試合でも負けると泣いてしまったり、今振り返ると恥ずかしい思い出です。父親に叱られたこともありました。それでも、その大会を目指してサッカーを続けました。

目標を持つことは、本当に素晴らしいと思います。それがあると、まっすぐに努力することができます。努力を努力と感じず、サッカーの練習だけでなく、自主的に走り込みをしたりする必要も感じ、小学生ながら何度もその努力を重ねました。このまっすぐな気持ちが、その後のサッカー人生に繋がったのだと思います。仏子ブラックスが創設以来、県大会に出場したことが1回しかなかった中で、県大会でベスト16に進出しました。私たちは全国大会に進出したいという目標を持っておりました。まずは県大会で勝ち抜いてベスト16に進出し、その喜びを親たちと共に祝いました。その日、みんなで16号のスタミナ太郎でお祝いしました。現在、そのスタミナ太郎は存在しなくなってしまい、非常に寂しい思いをしています。

県大会に出場し、親たちは「創部以来2回目で県でベスト16」と満足していました。しかし、子供たちはまったく満足せず、全国大会に進出し、あと4試合勝てば本気で目指すと考えていました。結果的に、奇跡的に全国大会に出場することができました。決勝戦の相手は、現在では非常に有名な存在となった新座片山でした。当時はまだ知名度が低く、私たちの仏子ブラックスも有名ではありませんでした。しかし、決勝で対戦し、逆転の3対1で勝利して全国大会に出場できました。これによって、まず1つの夢である全国大会が叶ったと言えます。ただ、親たちも自分も、目標が少し低かったのかもしれません。親たちは県大会に出場し、それで満足してしまったようです。自分も全国大会に出場し、そこで満足してしまったのかもしれません。全国大会ではベスト16まで進出しましたが、その後敗れてしまい、終わりという結果になりました。しかし、この経験は本当に貴重なものであり、私にとって大きな宝物です。なかなか経験できないことであり、今でもその時の写真を見て、昔の仲間と笑い合ったりしています。

その後、私は入間市の西武中学校に入学しました。現在、少子化の影響で、残念ながらサッカー部は存続していません。この事実も少し寂しいものです。中学に入学しても、私の目標は変わらず全国大会への出場でした。全国一位になりたいという強い思いで学校に入学しましたが、先生方は本当に冷ややかな目で、「全国大会に出場するなんて無理でしょう」と言っていました。多くの先生方がそう考えていたのですが、私はそれを聞いて「いや、いけるよ絶対」と思いました。この思いはちょっと悔しい気持ちから生まれたのかもしれません。サッカー部の顧問の先生は私を信じてくれましたが、他の先生方は全く信じてくれませんでした。

結果的に、中学でも全国大会に出場できたのです。これも奇跡的なことで、小学校時代と同じメンバーがほとんどで、全国大会の経験があったため、出場できる確率は低くなかったはずです。もちろん、他のチームも練習を積んで力をつけてきていたため、試合に勝つことは難しかったですが、結果的に全国大会に出場することができました。私は小学校と中学校で地元の仲間と一緒に全国大会に出場できたことは誇りであり、自慢です。高校なら強豪校に進学すると戦力が集まり全国大会への出場確率も高まりますが、私は地元で生まれ育ち、小学校、中学校と地元の仲間たちと、全国大会出場を達成できたことは今でも誇りであり、自慢のことです。この貴重な経験を活かし、現在、中学生への指導も行っており、自分の経験を伝えています。

そして、高校に進学します。先ほど、私が言った通り、一般的には強い高校を選ぶと全国大会への出場確率が上がると言われています。現在もその高校は強いのですが、当時、埼玉で最も強いと言われていたのは武南高校でした。テレビ埼玉で武南高校の試合を見て育ったため、「絶対に武南高校に入りたいし、そのユニフォームを着たい」という思いがありました。しかし、周囲の大人たちは、「武南に行っても全国大会に出場できないから、他の近くの高校に行った方が良い」とほとんどがそう言っていました。今考えると、彼らの意見は本当に正しいと思います。しかし、私は自分の目標を達成したかっただけで、周囲の意見があまり気になりませんでした。「いや、武南に行って成功させてみせる」と思っていました。もちろん、試合に出場し、全国大会で優勝するという明確な目標があり、それに向かって進みました。周囲の大人たちは反対しましたが、親たちは協力し、私の選択を認めてくれました。結果的に、武南高校のセレクションに合格し入学することができました。人生の目標として、サッカーをする上での夢は、全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、そしてその大会で優勝することでした。武南高校は蕨市にありましたので、私は片道1時間半かかる電車に乗って通学し、朝6時45分には仏子駅を出発し、夜9時半に帰宅する生活を送りました。実際、この生活は予想以上に厳しく、ここでかっこいい話があるならそれはそれで素晴らしいと思います。しかし、本当に厳しく、練習は過酷で、サッカー部員として学校生活も常に模範を示さなければならないため、一日中緊張感がありました。授業中も5時間目や6時間目になると、サッカー部の選手は「またきつい練習が待っている」という気持ちで下を向いていました。実際に高校に入学し、この生活を送ることで、サッカー人生で「サッカー辞めたいなと、逃げたいな」と感じることがありました。この気持ちは高校時代にしかなかったです。本気で辞めたいと思うほど、厳しく苦しい経験でした。しかし、その中で私の目標である高校サッカー選手権への出場とテレビで名前を呼んでもらう夢は、1年生の時に達成することができました。全国大会に出場すれば、テレビ埼玉だけでなく、日本テレビなどでも試合が放送たからです。また、国立競技場でプレーする夢も1年生の時に実現しました。しかし、高校サッカー選手権において、1年生の時は全国で4位になりました。しかし、武南高校は6年連続で高校サッカー選手権に埼玉代表として出場していましたが、3年生の時には自分の代で活躍し、優勝するという目標を持って生活していましたが、私の代の時に県大会の決勝で敗北し、連続出場の記録が途絶え、急に高校サッカー生活が終了しました。この経験は今でも私にとって最も苦いもので、その時の映像はVHSテープに残っていますが、30年以上も経っている今でも一度も見ることができず、その映像を見る勇気がありません。県大会で敗北したことにより、全国大会出場の夢が破れ、ここで本当に目標がなくなり、いわゆる「燃え尽き症候群」になってしまいました。私が高校2年生の時、Jリーグが創設された年、1993年だったと思いますが、一つの新たな目標が現れ、プロサッカー選手になりたいという気持ちも芽生えました。高校でもある程度の成績を収めたため、浦和レッズから声がかかったこともありましたが、サッカーをやりたくないという気持ちが強まりそれを断りました。ただ、何もせずにいるのもよくないと感じ、声をかけてもらった国士館大学に進学しました。私は本当に抜け殻のような存在で、高校サッカー選手権に出場できなかったこと、自分たちの代で出場できなかったこと、連続出場の記録を止めてしまったことから、サッカーから逃げたくなり、サッカーをやりたくない気持ちが非常に強くなっていました。ここで私のサッカー人生の第一章が終了し、その先については何も考えられない状態でした。

第二章は、大学サッカーとなります。ここで出会ったのが、国士館大学の大澤英雄先生という方で、現在は87歳です。実は、大澤先生は私が小学生の頃に参加した読売ランドで行われた全国大会を創設した方です。振り返れば、当時、私たちのチームには国士館大学のお兄さんが付いてサポートしてくれていたことがありました。振り返ってみれば、私はその時から大澤先生の縁によってサッカーの道に導かれていたのだと思います。何かの縁があったのか、私は国士館大学に進学することになりました。。国士館大学に進学することは、私の人生における重要な岐路であり、何かしらの縁があったのでしょう。ちなみに、私の息子も18歳で現在サッカーをしており、来年から国士館大学でサッカーを続けることになりました。これも何かの縁を感じています。もしこの時点で私が浦和レッズを選んでいたら、息子も異なる人生を歩んでいた可能性があるでしょう。人生は本当に面白いものだと思います。私は国士館大学を選んだ時、初めはサッカーを真剣に取り組む気持ちではありませんでした。学校が始まってから約1ヶ月ほど、ゴールデンウィークまでは、本当にサッカーをしていましたが、気が抜けたような感じでした。チームはAからCまであり、私はBチームで、同じ1年生の中でAチームに所属している選手もいましたが、なかなかやる気が出ず、続けていました。しかし、ある時点で「これではいけないな」と感じました。全国から名だたる選手が集まる環境であり、競争も激しいものでした。高校時代には私よりも活躍している選手も多くいました。その中で、気持ちが入らなかったり、遊びに走ったりして続けられなくなる選手もいました。そんな状況の中、約1ヶ月後に「このままではいけないな」と思い、再びサッカーに真剣に取り組もうと決意しました。では、やるなら試合に出たいし、Aチームに昇格して試合に出たいし、大学卒業後にはもう1度プロを目指したいという気持ちが芽生えたので、真剣に取り組み、秋口頃にはAチームで試合に出られるようになりました。そして、そこで初めて目標であった日本一になりました。国士館大学で日本一になることが2度経験できたことは大きな経験ができたと感じました。本当にサッカーを辞めるかどうかギリギリのところで、もし何かが少しでも違っていたら辞めていた可能性も高いです。サッカーを続けるべきだと感じ、もう少し頑張ろうと思えたきっかけは覚えていません。おそらく周囲の仲間が影響を与えてくれたのか、親がサポートしてくれたおかげかもしれません。その時に続けていたからこそ、プロサッカー選手としての道もあったのかなと思います。高校3年生から大学1年生の最初の1か月は、サッカーをしながら複雑な気持ちを抱えていましたが、何かが吹っ切れたのかもしれません。大学では4年間、最初の1ヶ月以外はしっかりとサッカーを続けていました。そして、ありがたいことに大学4年の初めにプロチームからのオファーをいただきました。

その中の1つがジュビロ磐田で、現在はJ2、つまり2部リーグに所属していますが、当時はJ1、つまり1部リーグで優勝し、Jリーグでも1番または2番に位置していました。その時期はジュビロ磐田と鹿島アントラーズが注目されていた時期でした。いくつかのオファーの中で、ジュビロが最も強かったことからジュビロを選び、プロ選手となることができました。このチームには有名な選手が多く在籍していて、日本が1998年のフランスワールドカップで初出場した際に初ゴールを決めたゴン中山さんや、現在は日本代表のコーチを務めている名波浩さんなどがいました。チーム全体がレギュラーメンバーが日本代表クラスの選手が多くそろっていました。本当に、そこでプレーしたいという気持ちがあり、力強いチームだからという理由で選びましたが、ここで実際にプロとなると、これまでにない衝撃を受けたと言えます。自分はプロチームからオファーをもらったので、それなりにやれるかなとは思っていましたが、スピードや判断力の違い、そしてもちろんサッカーへの姿勢など、その差を感じ、1年目から「これ、やっていけるかな」「このレベルでずっと続けられるのかな」と考えながらプレーしたことを覚えています。そして、結果として、16年間もの間、プロサッカー選手として活動することができました。

契約は基本的に1年契約で、毎年契約を更新していくことになるため、1年ごとに契約が切れる可能性もありました。クビになる理由を理解し、感じたのは、ついていけない選手が多く存在するだろうということでした。現役を続けるためには、その場その場で努力し、適応する力が必要だと思います。私はレベルの高いチームに所属したため、試合に出場するのは難しかったですが、高いレベルの環境でプレーすることによって他のチームでは得られない経験をしました。特に1年目から、当時のアジアクラブ選手権(現在のACL、AFCチャンピオンズリーグ)と呼ばれる大会があり、私は同行できて、決勝ではイランの地でイランのチームと対戦しました。さらに、決勝の2日前には、イランの日本大使館から招待を受け、パーティーに参加する機会もありました。

決勝はイランのアザディスタジアムで行われました。これは日本では考えられないような、10万人収容のスタジアムに12万人が詰め込まれていたという理解できないような状況でした。さらに、女人禁制だったのです。現在の状況は変わっているかもしれませんが、当時、女性が1人もスタジアム内にいないという異様な雰囲気がありました。イランがそのような場所であることを感じさせられました。私は試合で最後の方にサブとして出場しましたが、ウォームアップの際、アウェーゲームということもあり、観客から石や他のものが投げられ、試合中にはフィールド内の声もかき消されるような、プレーに干渉されるような声もあり、そのような状況で試合をしました。しかし、最終的に見事に優勝しました。

イランはイスラーム教の国であり、この宗教上の理由でお酒の摂取が禁止されています。良くないことなのですが、優勝した日の夜、恐らく日本大使館関係者がお祝いのためにホテルに訪れ、お酒を出してくれたことを覚えています。だから、「飲んだらすぐ回収するから」と言われ、缶ビールをお祝で一人一本程度飲みました。そして、全て空き缶はきちんと回収されていきました。イランはそのような国だったので、本当に鮮明に覚えています。移動のバスでも石が投げられてガラスが割れる恐れもあり、カーテンを閉めて見えないようにするなど、本当に日本では考えられないような経験がありました。1年目から厳しい状況でプレーした経験や、日本では経験できない環境面、例えば、食事が時間通りに提供されなかったり、アウェーの難しさを受け入れたりといったこともありました。そして、その環境で順応していくしかないと割り切ることで、精神的にも少しタフになることができました。これは、プロ選手として16年続けられた要因の一つかもしれません。

私はJリーグの最初の4年間ジュビロ磐田に所属していました。本当に強豪チームで、チームは2回の優勝経験があり、非常に素晴らしいチームでした。この経験から感じたことは、強豪チームに所属すると優勝は可能だけれど、私の出場時間は長くなくて、先発出場は年間7、8試合程度で、出場数も30ゲームのうち22試合程度でした。途中出場が多かったりもして、「自分の力で勝っているのか?」という疑問が芽生えました。私はサッカーを真剣に取り組んでおり、プロとして評価と報酬を得ていますが、これが本当に自分の力によるものなのか疑問に思うようになりました。サッカーは限られた年数しかプレーできないものだと気付いたのは、25、6歳の頃でした。もし残り数年しかプレーできないのなら、もっと自分の力を試したいと思い、移籍を決断しました。ただし、移籍はチーム間のルールや移籍金の問題があって簡単には進まないものでした。ジュビロで3年間プレーした後に移籍を試みたものの、移籍金の問題で失敗しました。しかし、FC東京が興味を示してくれて、「FC東京が欲しい」と言ってくれたので、プロ4年目の時にFC東京への移籍が実現しました。


FC東京は、練習場は所沢に近い位置にある小平にあります。入間市に実家があるため、親もすぐに見に来ることができます。また、スタジアムも調布市と近く、これも移籍を決断した理由の一つです。サッカー選手の現役は多分27~28歳までしかできないだろうと計算し、移籍後は本気で自分の力を試してみたいと思い、FC東京に移籍しました。その後、38歳まで現役生活を続けました。長くプレーすることを最初から考えていたわけではなく、契約は1年ごとであり、毎年全力を出して取り組むことで、結果的に長くプレーできたのだと思います。もちろん、怪我をしたり、アキレス腱を断裂して1年間試合に出場できなかった時期もありました。クビになる可能性もあった時期もありましたが、チームはプレー以外の面でも私を認めてくれ、契約を更新してくれたりと、周囲のサポートがあって今があると感じています。


私は38歳で現役を退いた後、丸山さんの紹介でもありましたように、入間市の中学生チームである「JOLTIVA Jr.Youth(ジョルティバ ジュニアユース)」の代表と監督を務めています。中学生への指導に加えて、小学生や時折幼稚園児たちにも関わりながら、3年前からは狭山ヶ丘高校のサッカー部のコーチも務め、さまざまな年代の子供たちを指導しています。自身の経験を活かせる場であるサッカーの仕事を通じて、子供たちに対して指導を行うことは、私にとって意義深いものです。このような活動を通じて、サッカーの道を示し、サポートしていくことが今後も続くと考えています。また、来週からは狭山ヶ丘高校のサッカー部が高校サッカー選手権の予選に臨む途中で、皆さん、もしご興味がありましたら、ぜひ応援いただければ幸いです。まとまりのないお話でしたが、何か少しでも感じていただければ幸いです。ありがとうございました。
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