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週報
Weekly Report

公開日:2023/8/1 第2904回例会  内容:第2903回(2023/7/25)レポート

例会予定

**第2904回例会のスケジュール**
8/1(火)卓話 講師:中井 眞一郎さん 演題:「ロータリーとは」 会場:ベルヴィ ザ・グラン

**次回以降のスケジュール**
8/8(火)定款の規定により休会
8/15(火)定款の規定により休会
8/22(火)移動例会 8/21(月) 市長卓話5クラブ合同
8/29(火)納涼例会 会場:草門去来荘 東村山
9/5(火)卓話 講師:未定 演題:「未定」 会場:ベルヴィ ザ・グラン

会長の時間

五十嵐 俊昭 会長

皆さん こんにちは、梅雨も明けて猛暑が日本列島を覆っています。

先日の大相撲千秋楽で、所沢出身力士”北勝富士”が優勝決定戦を行いました。
残念ながら負けてしまい優勝は逃しましたが、ファンを楽しませてもらった15日間でした。
これからは、大関・横綱をめざしてもらえるように応援していきたいと思います。

暫く耳にしていなかった「新型コロナ」感染状況が、また患者数が増加しているようです。
第5類に移行しましたが、第9波とみられる状況が先月の終わりくらいから増加しています。
以前のような正確な数字は発表されていませんが、データからみると今年の1月~2月の数値となっています。

病状が悪化するケースの割合はかなり少ないですが、後遺症が残るケース多く聞きます。
お互いに気をつけて、インフルエンザの予防とかわらずマスク・うがい・手洗いを暫く実行していきたいと思います。

本日は今日は何の日というカテゴリーで検索した結果についてお話させて頂きます。

7月25日は「最高気温記念日」です。1933年(昭和8年)7月25日に、山形県山形市で最高気温40.8度を記録したことに由来する記念日です。

日本最高記録は長年更新されていませんでしたが、2007年(平成19年)8月16日、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市にて、74年ぶりに日本最高記録を更新する40.9度を観測しています。

7月25日は「かき氷の日」です。かき氷は、古くは「夏氷(なつごおり)」と呼ばれており、「な(7)つ(2)ご(5)おり」との語呂合わせから、日本かき氷協会がこの日に制定しました。

1978年7月25日、世界で初めてとなる体外受精でのベビーがイギリスで誕生しています。当時は「試験管ベビー」とも呼ばれ、世界中で大きなニュースになりました。

ケンブリッジ大学で研究がおこなわれ、母体から採取した卵子を体外受精させ、母の子宮へ移すという方法で成功したものです。その後の不妊治療の発展において、大きな一歩となりました。

世界的なスポーツも続けて開催されます、現在開催中の世界水泳、来月にバスケットワールドカップ、9月にはラグビーワールドカップ等が開催されます。
先に開催された世界16か国バレーボールのネイションズリーグでは、過去最高の3位になりました、これに続き世界大会で良い成績を残してもらえること祈念します。

夏本番がやってきますので、皆様も体に十分注意しながら、この夏を乗り切って頂ければと思います。

幹事報告

道口 泰己幹事

皆様、こんにちは。それでは、幹事報告をさせていただきます。

【例会予定】
本日、7月25日火曜日の例会は、イニシエーションスピーチになっております。肥沼会員、斉藤会員にスピーチをお願いしております。2人とも後ほどよろしくお願いいたします。
8月1日火曜日は、卓話例会です。講師にパストガバナーの中井眞一郎会員にお願いしております。演題は、「ロータリーとは。」です。会場はベルヴィ ザ・グラン 12時30分点鐘です。
8月8日火曜日、8月15日火曜日は、定款の規定により休会になります。
8月21日月曜日は、所沢市内5クラブ合同例会、市長卓話になっております。会場はベルヴィ ザ・グラン、18時点鐘です。事務局の方より、7月20日に開催の案内が送られてると思います。
出欠席の返事が来週の8月1日火曜日までになっておりますので、皆様のご対応の方よろしくお願いいたします。また、例会が火曜日ではなく月曜日の例会になっていますので、皆様お間違いのないよう、よろしくお願いいたします。
8月29日火曜日は、納涼会になります。場所は草門去来荘 18時転書になります。詳しくは、委員会報告にて加藤委員長より行ってもらいますので、よろしくお願いいたします。


【市内5クラブ会長幹事会】
第1回市内5クラブ会長幹事会が、7月28日金曜日18時30分より、新所沢駅東口にあります、中華料理祥和にて行われます。これは、五十嵐会長と私で参加してまいりますのでよろしくお願いいたします。

鳥居会長エレクトより

鳥居 由美子 会長エレクト

鳥居でございます。五十嵐年度の初っ端から2回もおやすみしてしまいまして本当に申し訳ございません。ちょっと海を渡りまして、家政婦をしてまいりました。今、ロスは朝晩は涼しく、冷房もいらないんですけども、昼間はほんとに日差しが強いです。またちょっとお休みすることもあると思うんですけども、皆様よろしお願いいたします。今年1年、五十嵐さんをずっと観察して勉強してまいりたいと思います。
鳥居さんからお土産をいただきました。

委員会報告

親睦委員会
加藤 和伸委員長

皆さん、こんにちは。先ほど道口幹事からありました通り、8月29日納涼大会を東村山の八坂にある草門去来荘で開催をいたします。
時期的には、夏の時期ですね。場所は野火止用水の用水路の先を歩いていくようなイメージです。おそらく時間帯を考慮すると、お店に行く途中にはひぐらしの鳴き声や鈴虫の音など、夏の虫の音が聞こえるでしょう。夏のひとときを感じながら、その音に包まれながらお店に入っていただきます。
土用の日ではない日に、ウナギベースのお食事を提供する予定です。皆様に充分に楽しんでいただける内容となるよう、夏のひとときを心地よく感じていただけるような納涼大会を計画しています。ぜひ、皆様のご出席をお願いいたします。
お店では、夏の、ちょっと、土曜の日ではないですけれども、ウナギベースのお食事というところで、皆様に十分楽しんでいただける、また、夏のひとときをですね、感じていただけるような、そんな納涼大会を予定しておりますので、ぜひ、皆様のご出席をお願いしたいと思います、
出欠状況を確認しましたところ、まだ約3分の1の方が出欠の回答をいただいていない状況です。まだ締め切りまで時間がありますが、既に予定が空いている方は、ぜひご出席いただけると嬉しいです。もしご都合が合うようでしたら、ぜひご参加いただけると幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。以上です。

ベルヴィ ザ・グランよりお知らせ

副幹事
市川 雅巳さん

皆さんにお配りしておりますが、大変いつもお世話になっております、ベルヴィ ザ・グランよりお知らせです。8月の1、2、3、4、5でビアホールを開催するそうです。
裏を見るとチアダンスのショー等いい企画となっておりますのでぜひご紹介させていただきます。

スマイルボックス

スマイルボックス委員会
柳 麻貴 副委員長

五十嵐年度:80,000円

鳥居 由美子さん
長らくお休みして申し訳ありませんでした。またお休みするかもしれませんが、ロータリーの友情でよろしくお願いいたします。肥沼さん、斉藤さん、イニシエーションスピーチ楽しみにしています。

道口 泰己さん
梅雨があけて、暑い日が続くので、ニコニコします。

阿部 武志さん
斉藤会員のイニシエーションスピーチに感謝します。

池田 安弘さん
お願いです。9月13日(水)商工ゴルフが開催されます。会員仲間、グループでの参加をお願いします。会報誌に折込みが入っていますので早めにお願いします。尚、所沢クラブから、5人の委員が活躍しています。

二上 昌弘さん
私が会員増強委員長の時に入会頂いた、斉藤、肥沼両会員のイニシエーションスピーチを楽しみにしております。

日向 貴一さん
件数が少ないそうなのでニコニコします。ヤナギさん頑張ってください。

橋本 幹男さん
肥沼会員、斉藤会員、イニシエーションスピーチよろしくお願いします。楽しい話がたくさんあると思いますが本日欠席のため聞けず残念です。

斉藤 祐次さん
本日はイニシエーションスピーチでお話いたします。みなさまどうぞよろしくおねがいいたします。

肥沼 直明さん
所沢商工会議所会報誌「Sora」の特集に弊社株式会社コイヌマを載せていただきました。五十嵐会長ありがとうございました。

出席率発表

出席向上委員会
瀬戸山 達郎 委員長

総数:58名
出席:34名(うちZoom0名)
欠席:24名

本日の出席率:66.67%

イニシエーションスピーチ 登壇者紹介

プログラム委員会
吉田 慶 副委員長

皆様、こんにちは。本日はですね、肥沼直明会員と、斉藤祐次会員のお2人にイニシエーションスピーチをやっていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。肥沼会員の方がたくさん話していただけると思います。よろしくお願いいたします。

イニシエーションスピーチ

肥沼 直明さん

皆さん、こんにちは。イニシエーションスピーチさせていただきます。貴重なお時間をいただきまして誠にありがとうございます。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

私はコイヌマナオアキと申します。漢字で書きますと、肥料の肥、さんずいの沼、直角の直、明治の明と書きますす。実はこれらの漢字は全て八画で構成されています。生命判断という占いによれば、この名前は非常に高い評価を受けているそうですが、自分にぴったり合うかはわかりませんが…

これまでの私の人生をお話ししますね。私は所沢市北秋津で生まれ、所沢第一文化幼稚園に通いました。その後は所沢市立北小学校に進み、中学は向陽中学校に進学しました。幼少期から私は体が大きく、背の順位も常に後ろの方でした。少年時代は辛い思いをあまりせずに済んだと思います。ゆえにのんびりと育ち、勉強もあまり真剣にせず、スポーツで県大会に行きました。というような実績はありませんでした。特筆すべきことはなく、非常に普通な少年時代を過ごしました。

その後も、高校は飯能にある聖望学園高校に進学し、大学は八王子にある帝京大学に進みました。高校時代はマクドナルドでアルバイトをしたり、大学時代はアルバイトとサークル活動、そして女の子と仲良くなるなど、普通の生活を楽しみながら青年期を過ごしています。大学生の時に、特別な経験として、3年生の時にロータリークラブの2570地区からオーストラリアのパースに短期の交換留学で行く機会をいただきました。この交換留学では、30名ほどのメンバーと共に現地のロータリアンの方々にお世話になり、伊勢海老釣りに連れて行っていただき、船の上で伊勢海老を食べるなど、本当に貴重で贅沢な時間を過ごさせていただきました。心から感謝しています。この交換留学では、オーストラリアの方々も30名ほど来日し、その中の一人、25歳ぐらいの白人の男性であるギャリーが3週間私の実家に滞在しました。姉も同い年だったので、彼を喜んであちこち連れ回したことを思い出します。ここまで、比較的穏やかな学生生活を送ってきましたが、大学4年生になると、父は会社の経営をしておりましたが、自社の取引先へのコネを使わないことを宣言していたので、私も普通にまともな方法で就職活動を行うことになりました。

当時、私はどんな仕事がしたいのか全くイメージがなく、志望動機も非常に曖昧でした。有名な会社ばかりに受けても全く採用されることはありませんでした。面接にすら進むことができず、7月や夏になっても全く反応がありませんでした。この状況は深刻で、私はもう就職できないのではないかと心配になりました。そこで、少し小さい規模の会社にも応募し始めました。すると、8月ごろから少しずつ企業から反応があり始め、その中の1社にパーク24という会社がありました。パーク24は時間貸駐車場タイムズを運営している会社です。しかし、当時の私はパーク24という会社についてよく理解していませんでした。1994年の時点では、所沢にはタイムズはもちろん、コインパーキングの存在すらまだほとんどなかった時代でした。私はこの会社に応募しようかと思っていましたが、実際にどんな事業を行っている会社なのかをよく把握していなかったのです。当時、時間貸駐車場という言葉は私にとってはピンと来ないものでしたが、なんとなく元気な会社だと感じたため、この会社に入社することにしました。現在は東証プライムに上場しており、年商で約3000億円と連結ベースで5000億円ほどの大きな会社に成長しています。しかし、私が入社した当時は、年商64億円ほどで、中小企業から一歩抜け出そうかなという程度の小規模な会社でした。

入社後、最初の入社式で社長の挨拶を聞いた際、当時の西川社長から「去年は年商64億だったけど、今年は年商100億に行くんだ」という言葉を聞きました。その時は少し驚いたものの、100億は難しいだろうと思っていました。しかし、見事に売上は98億まで達成し、その年の決算の挨拶で社長は「次の年は200億行くんだ」と述べました。当時は200億の売上を達成するなんて考えられないと思いましたが、実際に195億ぐらいまで達成しました。その後も売上は伸び続け、私が入社して3年目には株式の上場が果たされ、社員数も急速に増えていきました。新入社員の挨拶が毎月のように行われるほど、中途採用が頻繁に行われていた、活気ある会社でした。私はパーク24で4年間お世話になりました。最初の2年間は東京で過ごし、その後名古屋営業所に配属されました。東京では2回オフィスを引っ越しし、営業のフロアも広くなりましたが、人数が急速に増えていきました。3年目になると、オフィスを見渡すと150人以上いたと思いますが、私よりも後に入社した社員が半分以上を占めるようになり、3年目なのにベテランの雰囲気が漂うような会社でした。

年商64億円程度の会社から2部上場、上場という成長を中から体験できたことは、本当に素晴らしい経験でした。その過程で、会社が成長していく仕組みやビジネスモデルを目の当たりにし、多くのことを学びました。このような経験は私にとって良い勉強であり、非常に有意義な体験となりました。そして、3年目と4年目には名古屋営業所に配属されました。名古屋営業所は営業所長を含めて15人ほどの小規模な事務所でしたが、ここで時間貸し駐車場のビジネスモデルがどのように構築されているかを現地で把握することができました。小規模な環境なので、みんなの目が届く中で様々な経験を積むことができ、特にその経験は私が独立する際に非常に役立ちました。最初は名古屋営業所に行くことに抵抗を感じていましたが、現在では本当に素晴らしい経験をさせてもらったと感じています。運が良かったと思っています。これらの経験が私の独立に大いに役立ったと感じております。

その後、父から株式会社コイヌマに戻ってこいと頼まれました。当初は上場企業のサラリーマンとして働くことも考えましたが、成長著しい時間貸駐車場産業に携わった経験を活かして、自分の商売としてやってみることに決めました。父に相談し、条件を出すことで、今のK'sPark駐車場事業を始めることができました。その後は、地元の皆様を含む多くの方々の支援のおかげで、ここまで順調に事業を進めることができました。所沢ロータリークラブにも入会することができ、本当に人生がラッキーで運が良いと感じています。自分の姓名判断のおかげかわかりませんが、このような経験を通して成長できたことに感謝しています。

私の家族構成についてですが、妻と3人の子供がいます。上から女の子、男の子、女の子の順で、1番上は社会人の1年生で、次が高校3年生、下が中学3年生ですね。彼らは私と同じように頭が良いとは言えませんが、ちゃんと学校に行ってくれていることが何よりも嬉しいと思っています。また、趣味や遊びに関しては、ゴルフ、テニス、スキー、キャンプ、釣りなど、スポーツを中心に楽しんでいます。この週末も富士山の本栖湖でキャンプを楽しんできました。一方で、苦手なものとしてカラオケがあります。カラオケは本当に苦手で、大切なお客様や恐ろしい先輩とスナックに行く際でも、カラオケだけは避けていただきたいと思っています。もし私とスナックに行く機会があっても、カラオケは遠慮していただけるとありがたいです。

以上が私のイニシエーションスピーチです。ありがとうございました。

斉藤 祐次さん

今日は1時半まであるっていうことなので、あと25分ぐらいありますから、五十嵐会長の好きなおっぱいの話とかしながら、ちょっと時間を潰していただきます。よろしくお願いいたします。最新のおっぱいの話です。

私、新入会員で入りました、斉藤祐次と申します。よろしくお願いいたします。
事業は、薬局をやってまして、所沢市元町で薬局やってます。
創業は1830年頃だとされていますので、現在から約190年ほど前のことです。初代が1806年に生まれたとされます。東京の四谷に位置する薬局である灰吹屋は、約300年間営業していたのですが、その薬局で丁稚奉公をしている際に、「独立しなさい」との助言を受け、「灰」の字を頂戴し屋号を「灰屋」としました。また、1833年に天保の大飢饉が発生し、その頃の東京では生活が困難だったため、丁稚奉公に行っていた人たちに対して「田舎に帰りなさい」という政策もあったようです。そのため、その前後に戻ってきて、始めたのではないかと思います。私で6代目として現在やっています。私は先代たちと同じ場所でずっと薬局を営んでます。現在、薬局は医療機関の近くで開かれ、医療機関から処方箋をもらって処方してもらうというパターンが多いのですが、人々の近くに薬局があり、人のためにお店を営むというのは生き甲斐としてはいいのですが、薬局のビジネスモデルとしては、現在、非常に苦しい状況で、もうすぐ200年経とうとしていますが、200年経ったら一区切りしてもいいかなと少し思っています。私の先代からずっとやっているのですが、その辺については私個人よりも、二上昌弘君がよく知っているので、詳しく知りたい方は二上くんに聞いていただければと思います。うちの親の仲人をしていただいたお家ですから、二上くんに聞いていただければ、私のこと、よくわかると思います。その話は、また別の機会に譲りたいという風に思っています。

個人の話をします。

私、昭和43年生まれでありまして、子供は4人います。
先日、ロータリーの会員名簿の趣味の欄をチェックしました。皆さんが書かれた中で、私は"工作"と"地域貢献"と書いています。趣味は自称地域貢献ということですが、自称です。これまでの経歴として、大学を卒業してから一時的に大正製薬に就職した後、地元に戻ってきました。その後、商店街の方々から、「お、若い人が入ってきたようだね、商店街に参加しよう」と言われ、広瀬肉店や柏谷豆腐店など商店がたくさんあるところに入ることになりました。

その後、すぐに「青年会議所に入れよ」と言われて、青年会議所に入会しました。その後、商店街と青年会議所の活動を続けていたら、自民党所沢支部に参加するよう誘われ、その後、子供が小学校に上がったので、小学校のPTA活動をし、中学校でもPTAを担当し、最終的には会長を務めました。ある時、うちは10階建ての賃貸建物があり、その中の1室で騒ぎが起こりました。ちょうどその時に消防団の訓練が行われており、多くの人が集まっていたときに火災の報告が入りました。その結果、約30人ほどがうちの前に来てしまい、道路が通行止めにされるほどの大騒ぎとなりましたが、実際に燃えたのはガスコンロに置かれていた銀色の紙だけで、大した騒ぎではありませんでした。その後、そんな騒動があったので「責任を取って消防団入れよ」と言われたので、私は入居者に責任があると伝えたのですが、結局「大家だから」の一声で消防団に入団することになりました。それが私の消防団入団の経緯です。

その後、私は商工会議所の青年部などを経験しながら、地域貢献活動を行っていました。また、所沢市の資格薬剤師として、所沢市の薬剤師会にも加入していました。それが平成6年頃で、それから10年以上経って平成18年、37歳の時に、前任の会長が何らかの理由で辞めることになりました。その時、副会長や他のメンバーが密かに会議を開いて、「次の会長は誰にしようか?」「斉藤さんにやらせたらどうだろう?」という話になり、私に依頼が来ました。「会長を引き受けてくれる?」とのことで、驚いて「私が会長ですか?」と返答しましたが、それまでの経験を考えると、やってみる価値はあるなと思い、了承しました。そして、私は所沢市の薬剤師会の会長に就任しました。その後、すぐに社団法人化され、組織をしっかりと固め、堅実なヒエラルキーを築きました。絶対に反逆できないようなしっかりとした組織づくりを行いました。そして、約11年間にわたり会長を務めてきました。現在も埼玉県の薬剤師会会長として活動しています。その辺を踏まえて、先日、私は藍綬褒章を受章しました。皆さんには記念の品をお配りしましたが、この藍綬褒章は天皇陛下から直接いただくものです。賞状の詳細には、「日本国天皇は斉藤祐次に長年、保健衛生関連の要職にあり、この分野の発展に寄与したことに対して藍綬褒章を授与する」と記されています。「斯界」というのは、業界のことを指します。藍綬褒章は、業界の発展に寄与したことを評価されて受章したものであり、具体的には薬剤師会で長年にわたり業界のために尽力したことを認められたという意味です。会長を務めたことも大きな功績として認知された結果、この褒章を受けることになりました。褒章は、メダルのようなもので、上に布がついています。その布の部分を「綬(じゅ)」と呼び、下にぶら下がっているのが褒章です。藍綬褒章は、綬の色が藍色であるためにそう呼ばれており、黄色の綬の人は黄綬褒章、紫の綬の人は紫綬褒章といったように、色によって功績が違うことを示しています。

それでは、別の話をしましょう。私が青年会議所に入ったのは、多分平成6年だったと思います。その時は多分25、26歳ぐらいで、翌年の平成7年に阪神淡路大震災が起きました。青年会議所に入会したばかりの新入会員でした。その頃、うちの店で一緒に勤務していたときに、兵庫県南部地震(後の阪神淡路大震災)のボランティア募集のファックスが届きました。募集の紙を手に取って、「あ、震災のボランティア募集してるみたいだ」と言ったんです。すると、うちの親が間髪入れず、「ぜひ行ってこい」と言いました。「でも、うちの奥さんは妊婦なんです」と言ったら、親は「ぜひ行って体験してこい」と言ったんです。その年の7月に生まれる予定だったので、まさにつわりが終わって、妊婦の真っ最中だったんですけど、「俺も店を空けるし、うちの奥さんもろくに働けないよ」と言ったんですよ。それでも親は、「お前、こんな100年に1度しかないような地震なんだから、ぜひ体験してこい」と言われたんです。私の名前はユウジなんですが、親は有事(ユウジ)の際に役立つようにと名付けたのかなと思っていたんですが、実際は違いました。親はこういう体験の時に、チャンスがあるからぜひ行ってみろと言っていたんです。それで、私は実際にそのボランティアに参加してみました。

震災から数日経った頃、正確な日数は忘れてしまいましたが、おそらく5日目ぐらいだったと思います。その後、1週間ほど滞在しました。現地に行って、親の言っていることがよく理解できました。何が違うのか、何が驚くべきなのかと言うと、倒壊した建物の下に要救助者が多くいたのです。周囲には、すでに避難している人たちがほとんどでしたが、倒壊した建物の下にはまだ多くの人が取り残されていました。救援物資もやっと外部から届き始めたところでした。西宮の市役所に到着し、ここでボランティアをしてくれと言われましたが、困難な状況でした。物資がほとんどなかったのです。やっと港に救援物資が届き、水や毛布が供給されましたので、必要な物資を選んで運び出して良いと言われました。1台のトラックと地図を渡されました。代わりに、どこの避難所に何人ぐらいいて、どんなニーズがあるのかを毎日報告してくれと頼まれました。私は拡声器を手に取り、救援物資を積んで現地に向かいました。人が集まっていると思われる場所に行き、救援物資を持ってきたことを伝えました。欲しい人は並んでくださいと呼びかけました。すると、すぐに人が現れて、「私はこの町内会の住民です。ここに置いてください」と言ってくれました。了解しましたと言い、物資を降ろし始めました。周囲にはたくさんの人が集まり、「私にもください」と言う声が聞こえてきました。そこで、「今、ここの家の町内会の人荷物を置くよう指示されているので」と説明しました。すると、周囲の人たちから「この人は誰なんですか?」と尋ねられました。「この人はこの町内会の方ですよ」と答えると、「そんな人は知りません」と言われました。当時は本当に、みんなが生き抜くために必死でした。こんな厳しい状況では、人は変わってしまうのだと実感しました。そして、そうした状況で本性が現れることを体験しました。ただ、そんな時でも、私はここに物資を降ろしますのでお手伝いをお願いすると、みんなで手伝ってくれると言いました。荷物を置いた後、私は皆さんに「あとは自由に分けて結構です」とお話ししました。その代わり、明日も来ますから、何が必要ですかと尋ねました。すると、中にはパンツが欲しいとか、着替えが欲しいとか、食料が欲しいといった要望がありました。その要望を聞いて、私は本拠地に帰って、次の日にもう1回荷物を持って行ったんです。同じ場所に。次の日にまたその場所に行くと、前の日に会った人たちと同じ人たちが来ていました。その時に感じたのは、「こんな震災さえなければ、私は今まで通りの幸せな生活をしていたのに」と嘆いている人もいれば、「震災が起こったことは仕方ないから、ここからどうやって立ち直ろうか」と考えている人もいるということです。起こったことを受け入れられない人は、いくら時間が経っても沈んだままで、どうすることもできないようです。一方、次のステップを考えている人は、顔色が違います。欲しいものや必要な支援も次々に変わってきます。自分の生活を立て直すために何ができるか、どういう助けが必要か、ということを考えています。ですから、人手が必要と言われれば人を連れて行き、品物が必要と言われれば品物を持って行きますが、震災がなければこんな生活にならなかったと嘆く人は、何を持ってきても喜ばないようです。その心境の違いが明確に現れていると感じました。

そういう経験をして、今、青年会議所や私のことをよく知っている人たちからは、「あの人はいつも心がないんですよ」「物事に窮地に立たされても、全然堪えていない」と言われます。そして、「平気な顔をして、他の人を陥れるようなことをする」とか、「平然と窮地を乗り越える」と評されることもあります。これらの経験は、実はかなり以前からあったことでしょうが、私は決して窮地に立たされても動じないんです。その時に思ったのは、自分の意志が1番大事なんだということです。このような体験をして、とても良い経験だったと感じています。だから、親が「100年に1度、一生の間に1度しかないものだから、絶対に体験してこい」と言った意味が、その時に理解できたんです。それ以来、ずっとその経験を胸にして、今も活動しているという感じです。だから、私が皆様から「困っている」と言われたときにも、「大変だ」と表情を変えないのは、心がないとか言わないで、そういう経験に基づいているんだよと理解していただければありがたいです。それが地域貢献を意識している一因でもあるんです。

その後、時が経って、東日本大震災の際に私は薬剤師として医療救護班として現地に派遣されました。この時は震災から約3週間が経過していました。震災は3月11日に起こり、私たちは3月28日頃から現地に入りました。この時の被害は津波で、町の人々が建物と一緒に海に流されて悲惨な状況でした。それから約3週間経っていたため、電柱にぶら下がっている人や手だけしか見えない人、足のない人なども大部分が収容され、車の中で寝ている人たちもほとんどいなくなっていました。私は現地に行き、ボランティア活動をしました。その際に、地元の人々から言われた言葉がありました。災害の現状を見るのは構わないが、瓦礫を無造作に動かしたり、海の中を覗いたりしないようにとのことでした。
なぜかというと、まだそのような場所に要救助者が残っていたとしても、震災からは既に3週間が経っているからです。要救助者と言っても、その状態はある程度お察しの通りなんですけど、そういう人たちがまだいます。見つけるとその後の処理が非常に大変なんです。心が大きく傷ついてしまうこともあります。ですからそういう場所は避けた方がいいんです。あなたは生存者と接するボランティアとして活動することが求められているんです。と言われました。

避難所に行くと、小学校などには何百人も、約1000人もの人たちがいて、「お薬持ってきました。必要がある方は来てください」と声をかけると、人々が列を作ります。
人々が列を作っていると、「今まで飲んでいた薬がない」などと話してきます。その時に私は、「普段、何を飲んでいますか」と聞き取りをしました。普段飲んでいるお薬がわかると、病気もわかります。病気がわかると、適切な対応もできるんですけど、「普段のお薬、何を飲んでいますか」と尋ねると、「朝はこんな白い錠剤1個と、昼は黄色い錠剤、夜は青い錠剤です」というような感じで、見当がつきません。「それはちょっと…白い錠剤の名前とかわかりますか?」と言ったら、本人が自分の名前を答えるから、「いや、そうじゃなくて、薬の名前はわかりますか?」と尋ねると、「いや、わかりません。かっこいい名前だった」とか、カタカナだからかっこよく聞こえるということですね。そういうことを聞いて、「それだと、ちょっと難しいんだけど…」と言って、でも、いろんな過去の病歴などを聞いて、その人が持っている病気を推測しておくわけです。ここでは検査機器がないので、病気の種類や薬の名前を推測し、その情報をお医者さんに伝えて、お医者さんが処方するという感じでした。その時に、やっぱりお薬手帳を持っている人がいるんです。お薬手帳、知っていますよね。これを持っていると、処理が格段に違うので、別の列に並ぶように伝え、先に薬をお渡ししました。そのうち、ここも災害が起きることもあるということを覚えておいていただきたいんです。もし、お薬を飲んでいる方は、避難時には必ずお薬手帳を持って逃げていただくと、私たちが助けに行った際に、こちらの列に入れるということになりますので、その点を覚えておいていただきたいと思います。中にはお薬手帳を持っていない人もいますが、写真がありますと言って、携帯に普段飲んでいる薬の写真を見せてくれる人がいます。これも、私たちが見ると、情報がわかるんですよ。写真さえ見せてくれれば、わかりますから。そういう点では、お薬手帳もそうですし、写真も役立つなと思います。これは、薬剤師として、皆様方に啓発をしておきます。当日になって、「お前、俺の顔がわかるから、その病気わかるだろ」って言われても、一切わかりませんので、自分の身は、自分で守っていただきたいという風に思っております。

最後に、最初でお話した、最新のおっぱいの話なんですけど、これは最新の集中力に関する話なんですよ。話を聞く時、人の集中力って大体15分ぐらいしか持続しないんです。それを15分以上にするのは結構難しいんですが、そのための仕掛けとして、1番最初にその人の興味のありそうな話題を振るんです。そうすると、その前のどうでもいい話でも集中して聞いてくれるっていう研究があるそうです。僕が最初におっぱいって言ったら、みんな興味を持ってくれるかなって思ってやってみたんです。やっぱり、そうだったなっていう結果でした。みなさんおっぱいの話は好きですから…。今日は昼間ですから、なかなか本題には入りませんけど、次回の夜の宴会の時には、詳しくその話をしていきたいという風に、こんな感じでよろしいでしょうか。皆さんの後がよろしいようですね。イニシエーションスピーチでございました。ありがとうございました。
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